2016年10月11日火曜日

愛の神秘2



インドにはこんなジョークがあります。

結婚を許されない恋人同士が、橋の上から飛び降り心中することになりました。(インドではよくある話です)橋の上に立つと、真下に見える川は、はるかに深そうです。彼がレディーファーストとばかりに、彼女にどうぞお先にと優しく促します。彼女はここぞと男を立てて、いえいえ、殿方からお先にどうぞと一歩下がります。

誰もが自分をいちばん愛しているのです。誰もが相手に犠牲になってもらいたいのです。誰も自分を犠牲にしてまで相手に尽くそうなどとは思いません。究極的には、あなたはあなた自身を誰よりも愛しているということです。

ところが、いつかあなたはその何よりも大切な「自分自身」は全ての存在とつながっていることに気づかねばなりません。

「自分自身」は複数ではないのです。

「みんな結局自分がかわいいのさ」という大きな誤解のもと、自分だけが大切で相手にその犠牲になるように要求しているので、二人の間には争い以外に何も生まれません。暗闇のなかでもがくだけです。

それでも、わかってはいても、相手の小さな自我のために大切な自分を犠牲にするなんて、あまりにも癪にさわります。絶対にできるはずがありません。
エゴのかたまりがもうひとつのエゴのかたまりに、その身を捧げよと催促しても、反発が起こるのは当然です。

相手の中に「自己を超えた無我」、「宇宙的存在」を見出したとき、あなたはひとりでに自分の小さな自我を差し出します。
おもしろいことに、大いなる存在を見つけた無我の人のそばに行くと、その人は何の要求もしていないにもかかわらず、自分を差し出したくてたまらない衝動にかられるのです。



「愛」という現象に関わるには、それなりの準備が必要です。

まず、自分の中にある「エゴを超えた無我」、「もっと大きな自分」に小さな自分を捧げることができるかどうか。それが、愛に身を投じるための資格です。そうでなければ、愛という名のパワーゲーム、愛という名の駆け引きに翻弄されるだけでしょう。


どんな愛にも、いつか必ず自我を超えていかなければならない地点がやってきます。小さな自分、小さな境界線を越えていかなければならない時が。

この地点がやってきたとき、あなたは逃げ出すのです。

誰も自分の小さな、しかし、いとおしいエゴを犠牲にしたくはないのです。
もし万が一逃げ出す機会を逃せば、二人は子供をもうけ、より小さなエゴに自分たちの少しばかり大きなエゴを捧げます。子供のために犠牲になることは、人間的には成長するでしょうが、霊的に成長することは難しいでしょう。「自分より低い自我」に「自分の自我」を捧げたからです。
子供はあなたから生まれたので、どんなに成長してもあなたより高位になることはありません。親は時間お金エネルギー、あらゆることを犠牲にして子供を育てます。けれども、自分より低い子供に捧げることは、難しいことではありません。あなたはいつも子供より高位にいられるからです。
けれども、自分より高位にあるものに身を捧げるには、あなたのエゴは死ななければなりません。



どんな恋愛にも、遅かれ早かれこの地点は必ずやってきます。その時には、もっと高みにいくか、別れるかしかありません。


ところで、その「大いなる、高次の存在」というものは、どこに見出すことができるのでしょう・・・・・?

自分のちっぽけなエゴを落としたときに、それはあなたに現れます。
そのときのあなたの味わう歓びの様は相手を刺激します。エゴを落とすことがそんなにも楽しいのなら、自分も落としてみようかなという勇気を与えるのです。

瞑想の中で見つける以外に、自分の中に高次の存在を見出すことはできません。相手の中にふとした瞬間、その一瞥を見出すことができるだけです。そして、結局は、相手の中にある高次の存在も、自分の中にある高次の存在も同じだということに気づくのです。

そう、それはひとつなのです。

誰もがみな、自分の苦しみは自分の小さなエゴのせいだとわかっています。誰もがみな、そんなものは処分して、肩の力を抜いて幸せになりたいと望んでいます。けれども、もうエゴに疲れ切っているにもかかわらず、どこに捨てればいいのかわかりません。

そこで、心のうちで密かに戦争でも起こってくれないかと待っているのです。国と国とが戦えば、大きなミッションのために小さなエゴを落とせる絶好の機会です。戦争は無理でも、エゴを落とす口実になる何か大きなできごとを期待しています。
でもそれらは、外側から与えられたもの。苦痛からは開放されるかもしれませんが、大きな喜びは起こりません。
「もっと大きな自分自身」のためのミッションを自分で創造することができれば、それに勝る歓喜はないはずです。

ここでいう「もっと大きな自分」とは、具体的にどういうことなのでしょう?

たとえば、こういう例を理解すればわかりやすいでしょう。
朝の五時。ぐっすり眠っているのは、小さな私です。もっと大きな私は、「さあ起きて、散歩に行きましょう」と言います。小さな私の喜びを犠牲にして、起きなければなりません。しぶしぶ起きて散歩に出かけた私は、朝のフレッシュな空気に満たされ、とてつもなくいい気持です。
ベッドの中の気持ちいい眠りと、朝の散歩の気持ちよさは、比べるまでもありません。もっと大きな楽しさがあると知りながら、小さな私はベッドを抜け出したくありません。

小さな私は負けたくないのです。より高みに在るものの方がより大きな喜びであるのに、つまらない小さな喜びにしがみつこうとするのです。知ってはいるのにできません。「知っていること」は役に立たないのです。小さな私は、低次元の快楽にすぐにおぼれてしまうのです。そんな快楽は長くは続かないということをすっかり忘れて、きっとずっと続くと思い込んでいるのです。

この小さなピグミーがあなたのボスなのです。五歳の子どもが一国の首相になって、命令を下しているようなものです。どうなると思いますか?国民は全員、朝食にアイスクリームを食べなければ罰せられます。こんなバカげたことが、あなたの内側で起こっているのです。

ジャンクフードは体に悪いとわかっていても、止められないでしょう?

お腹を空かせた五歳のボスは、欲求不満でいっぱい。あれも食べたい、これも欲しい。今やパワーを手に入れた五歳児は、叶えられなかった望みを満たそうとしているのです。

どうして、こんな五歳児があなたのボスになることを許してしまったのでしょう・・・・・?

あなたが規律のある行いをしてこなかったからです。それは小さなボスにとっては拷問でしかないので、もちろん全力で抵抗するに決まっています。

それにしても、今までずっとそのような暴君の絶対君主制を許してきたのはなぜなのでしょう?

あなたは、だれがあなたという国を治めているか、ずっと無関心だったのではありませんか?領土は外壁に囲まれ、出入り口には鉄の門が設けられ、外界との接触はほとんど許されない。あなたの国は、いつの間にか鎖国状態になっていたことにも気づかず、その中でうつらうつら眠りこけていたのです。世界から隔絶し、どんどん小さく縮こまり、内向し、凝り固まり、ボスの命令だけを聞いて・・・

たとえばダンスの真っただ中で、たとえば大空の広がる自然の中で、もしくは何かのきっかけで、自分が果てしなく広がっていると感じるとき、あなたは愛と歓喜にあふれるという経験をします。何かのきっかけで小さな自分を忘れるとき、大いなる自分は突然やってきます。
ところがすぐにいつもの習慣で小さな自分にスルスルと戻ってしまいます。大いなる自分の存在を忘れないようにするには、たえ間のない訓練が必要なのです。

「自分を犠牲にする」「自己を滅却する」などとはじめから言われても、あまりにもハードルが高いので、「自分を忘れる」とやさしい言い方をするのです。本当は「自分を殺してしまえ」というのが正しい言い方かもしれません。
小さな自分を殺してしまえ。
しかしそんな酷いことをいきなり言われたら、きっとみんな逃げ出してしまうでしょう?

「自分を忘れる」ことは、残念ながらまちがった使いかたをされています。ドラッグ、アルコール、ミュージック、セックス、これらはみんな自分を忘れるためのツールです。確かに忘れさせてはくれますが、「もっと大きな自分」を与えてはくれません。誰もが苦しみをもたらす自分の小さなエゴをなんとかして捨て去りたいと心の中では望んでいるので、そのためのきっかけを探して泥酔し、トランス状態になり、溺れているのです。



意識の覚醒の中で、「大いなる自分」の存在を知れば、「小さな自分」は抗うことなく、まるで一滴の水が大海に溶けていくように、その中に消失していきます。そこには、ただ歓びがあるだけです。


気をつけなければならないのは、小さな自分が溶けていけるのは、誰か他の人の大いなる存在ではなくて、自分の中に隠れている大いなる存在にだけです。大いなる存在は、ひとつです。ただその入り口は、あなたの中にあるのです。
もし、誰かが「さあ、わたしの大いなる存在にあなたの自己を捨て去りなさい」というのなら、そこにはきっとある種の搾取があるにちがいありません。
あなたの内側でしか、「大いなる存在」のしっぽをつかまえることはできないのです。その本体がすべてとつながったひとつの存在であることを知り、小さな自分がその中に溶解したならば、その時あなたは生まれ変わったように別人になるでしょう。

瞑想においては、外側に何か探しに行くようなことは一切ありません。ただ目を閉じ、ひたすら内側を見よというのは、ずんずん見ているうちに、大いなる存在のしっぽにぶち当たるかもしれないからです。


ところで、大きな自然災害や大惨事に見舞われたりしたとき、人々の内面に起こる変化に気づいたことはあるでしょうか?

自分のことなんかそっちのけで、突然みんなに手を貸したり、何かしてあげたくなります。そんなときは、「もっと大きな自分」が現われているのです。
しかし、そのような非常事態を待たないと大いなる自分に出会えないとしたら、それは本物ではありません。災難が終われば、またもとの小さな自分にあっさりと戻ってしまいます。

実際は、被災者や被害者の「かわいそうな弱々しい自己」と比較して、被害を免れた自分の小さな自己のほうが、大きく偉く幸運に感じるので、手助けしたい、与えたい、世話をしたいという欲求が生まれてくるのです。それは、比較に基づいたニセの大いなる自分なので、そこで味わうある種の「高揚」や「喜び」は結局は自己満足で終わってしまいます。

ある種の人々は、好んで貧しい人々のいるところ、助けを求めている人々のいるところにばかり行きたがります。人々は大災害や、悲劇が起こるのを待っています。どこかで自分が大きく感じられるところを探しているのです。それは、歪んだ慈善者の精神です。このようなことは役に立たないし、障害にさえなります。


「愛」というのは、ある意味で鍛錬なのです。始めるのはとてもカンタンに見えます。が、一度ワナにかかれば、ありとあらゆる苦悩をもたらし、最後には自分を捨てるように要求してきます。
それが最終的な禊(みそぎ)・・・・・・・・・そして・・・・・・・・

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