2016年10月17日月曜日

愛の神秘3~「恋は3年で冷める」を超える唯一の方法




恋が冷めるのはなぜ?


「次のデートはどこ行く?」
肉体や、感情や、性ホルモンを楽しんでいるあいだは、愛は何も要求してきません。低い次元の自己は、ハネムーンを楽しんでいられます。
しかし、次のステップが始まったとき、楽しんでいたその自分を殺すようにという要求を突き付けられます。
その激痛を耐え抜きその苦しみを通りこして、悶絶するエゴを洗い清め流せれば、そのつぎに湧き上がってくるのは、おだやかな至福。すべてが歓喜と静寂に満ちたスペースです。ただし、当然ながらこの世で無料で手にはいるものは何ひとつありません。

そんなめんどうなことより、愛のファーストステージだけを楽しみたいという人々が大半でしょう。
新しくできたレストランに連れだって行き、今度はイタリア料理、今度はメキシコ料理。スキンシップやちょっとしたドラマを楽しんだあとには、半年ごとに相手を変え、あっちの国こっちの国と場所を変え、あくまでも最初の段階にだけ留まろうとします。このエンターテインメントの部分を「恋愛」と呼んでいるのです。

ところが、しばらくするとセカンドステージが待ち構えています。逃げることはできません。塩辛い部分が現われはじめると、場所を変え、相手を変え、再び甘くてスリリングなファーストステージに戻るべく、新しい相手とABCからやり直します。周りの景色が変わり、歩く道も変わり、すべては新鮮です。

そして、塩辛い部分がやってくると相手を変える。その繰り返しです。
世界中どこへ行ってもそんなあなたが出会うのは、あなたと同類の相手です。彼らもあなたと同じようにウロウロしているので、すぐにあなたたちはよい友達になれるでしょう。旅の友だとすぐに分かりあえます。まさに探していたのは、君のようなタイプ。私たちが求めている「恋愛」とは、まさにこのようなタイプ。

けれども、この「恋愛」はどこかつまらないし、なんだか疲れるし、熟練したあなたはあっという間に、「その地点」にたどり着いてしまいます。どの恋愛も同じパターンだからです。達人には三日もあれば十分。三日以上同じ相手と付き合わないようにとOSHOが言うのもうなづけます。

一日目。自分の一番いいところをアピールして誘惑します。
二日目。思う存分デートを楽しみます。
三日目。笑顔でサヨナラします。
それ以上は危険です。お互いの小さな自分同士がからみ合って、面倒を起こすことになるでしょう。


高次元に焦点を合わせること


誰かに恋するとき、あなたは無意識に、何かしら輝く崇高な部分をその人の中に見ているのです。そして親しさを増していくうちに相手はどんどん輝きを失い、縮んでつまらなくなるので、ついには相手の前で平気でゲップやオナラをするようになるのです。
以前のような崇高さが消えてしまったので、あなたは騙されたように感じます。
あの輝きは偽物だったのか?
けれども、そう思うのはまちがいです。相手が輝いて見えたから恋に落ちたのだと誤解しているのです。相手に「偉大な何か」を見たのはあなたの愛のせいです。誰もあなたを騙したわけではないのです。

瞑想を知らない愛は、ただ危険なだけです。
瞑想は、まず自分の中に崇高さを見出させてくれます。自分の中にもっと大きな輝く自分を見ることができれば、誰の中にも同じものを見ることができます。するとあなたは誰のことも愛することができるようになります。相手の中の低俗な部分を愛する必要などないのです。神聖な部分を愛するようになるのです。

相手の中の低次な部分とどう付き合えばいいのかわからないので、自分をオープンにできないということもあります。そんな時は、自分の中にある「もっと気高い自分」の存在を見つけると、誰の中にもその同じ「もっと気高い存在」を見つけられるようになるので、あなたはリラックスできるようになります。高みにある方が強いのです。
するとあなたは相手の低次元な攻撃の影響を受けることがなくなるので、傷つく心配はいらなくなります。


瞑想は愛をスタートさせる唯一の道です。まず自分の内面に、高次の存在を見つけること。誰かのお尻を嗅いで臭いと文句をいうのは、相手が悪いのではありません。そんなところにわざわざ鼻をこすりつけるあなたが悪いのです。

高貴さに焦点を合わせれば、あなたの目に見えるのは、至福や神々しさや仏性だけです。それらは誰のなかにも見つかるし、あなたはそれを愛するだけです。あなたが誰かの神聖さを愛しているとき、まるで自分自身のことを愛おしんでいるように感じるのは、それらが別々ではなく、ひとつだからです。
あなたはいくら愛しても疲れることはありません。これだけ愛したんだから、私のことも同じだけ愛してくれないと不公平だと、文句を言うこともありません。愛の中にあるとき、あまりにも自分のことを愛おしく感じるので、誰かほかの相手を愛していたのかどうかさえわからなくなるのです。

もし、あなたがこのような「愛の人」の愛の波動に触れるという経験をすれば、自分の中の「低次の自分」が愛されているのだと勘違いすることがあります。愛が注がれるとき、今まで私のことをこんなに愛してくれた人はいなかった、きっとこの人は本当に私のこと(個人としての小さい自分)を愛しているんだわと、エゴは思い込みます。
しかし、そのうちあなたは気づきます。彼から降りそそがれるその愛は私個人とは関係なく、私の中にある、なにか高尚な存在を愛していて、私がその高みへ近づくように手を貸して促しているんだ、と。

「愛に気づいた人」は人々がもっと大きな自分に気づくために手助けする、そういう役割を担っているのです。そうなれば、他人に傷つけられるかもしれないという恐れは消え、いつでもどこでもたくさんの人々と係ることにも恐れを抱かなくなります。
ただひとつの条件は、自分の内側に見つけた、大いなる存在を誰の中にも見つけられることです。ふたつとして大いなる存在があるわけではありません。それらはつながったひとつの存在です。誰のことも愛さずにはいられない。見知らぬ人はいなくなります。誰もかれもが自分自身。それが、「瞑想」です。

「高みを知る人」のそばにいると、あなたは突然エネルギーに満たされます。その人のためなら何だってしたくなります。どうしてこんなに献身的に奉仕してしまうのか、自分でもわからなくなりますが、どうしても止められません。魔術にでもかかってしまったのか操られているのか、疑いが頭をもたげてくるかもしれません。
しかし、やがてそれは自分自身の中の高尚なるもののために行っていたのだと知るようになるでしょう。

どこかの黒い建物の中のカウンターで支払った膨大な金額は、すべてあなた自身の高尚なる存在に投資していたのです。そのようなチャンスを与えられたので、あなたは自分に投資することができたのです。高いお金を取られた~と文句を言うことはなくなります。それは師(マスター)が仕掛けた甘い駆け引き。それが愛の神秘です。


大いなる自分を見つけるために


愛のもうひとつの側面を垣間見ることができるように手助けすることが、「リアルウーマン」の目的です。あなたの見たくない、触れたくない側面。あなたがいつも逃げ回っている、小さい自分を差し出すように、犠牲にするように要求してくる愛の側面。その領域に入っていけるようにデザインされています。

あなたがどうやって愛から逃げ、どこで滞り、いつも何を繰り返しているかを発見すること。愛のエネルギーはどのように流れ、どこでブロックされているのかを成長に伴って一歩一歩たどりながら見ていくこと。
誰がどうやって流れを澱ませたのか。あなたの中の「小さな自分」がどこで傷を負ったのか。それらをエクササイズを通して癒していきます。

傷ついた小さな自分は、大いなる自分に溶け込むことができません。まず、小さな自分を健康にすることが必要です。ただし、そこで満足してしまうのではなく、次のステップに進まなければなりません。もし、そこでとどまれば、せっかく健康になった小さな自分もそのうち不健康になってしまいます。癒されることが目的なのではなく、幸せになることが最終目的です。
健康ならそれはそれで結構ですが、「至福の歓び」が身体を駆けめぐることはありません。そのありあまる健康を持て余すことになってしまいます。
絶対に忘れてはならないのは、健康な心身だけが次のステップへジャンプすることができるということです。折れた翼では大空に飛び立つことはできません。


2016年10月11日火曜日

愛の神秘2



インドにはこんなジョークがあります。

結婚を許されない恋人同士が、橋の上から飛び降り心中することになりました。(インドではよくある話です)橋の上に立つと、真下に見える川は、はるかに深そうです。彼がレディーファーストとばかりに、彼女にどうぞお先にと優しく促します。彼女はここぞと男を立てて、いえいえ、殿方からお先にどうぞと一歩下がります。

誰もが自分をいちばん愛しているのです。誰もが相手に犠牲になってもらいたいのです。誰も自分を犠牲にしてまで相手に尽くそうなどとは思いません。究極的には、あなたはあなた自身を誰よりも愛しているということです。

ところが、いつかあなたはその何よりも大切な「自分自身」は全ての存在とつながっていることに気づかねばなりません。

「自分自身」は複数ではないのです。

「みんな結局自分がかわいいのさ」という大きな誤解のもと、自分だけが大切で相手にその犠牲になるように要求しているので、二人の間には争い以外に何も生まれません。暗闇のなかでもがくだけです。

それでも、わかってはいても、相手の小さな自我のために大切な自分を犠牲にするなんて、あまりにも癪にさわります。絶対にできるはずがありません。
エゴのかたまりがもうひとつのエゴのかたまりに、その身を捧げよと催促しても、反発が起こるのは当然です。

相手の中に「自己を超えた無我」、「宇宙的存在」を見出したとき、あなたはひとりでに自分の小さな自我を差し出します。
おもしろいことに、大いなる存在を見つけた無我の人のそばに行くと、その人は何の要求もしていないにもかかわらず、自分を差し出したくてたまらない衝動にかられるのです。



「愛」という現象に関わるには、それなりの準備が必要です。

まず、自分の中にある「エゴを超えた無我」、「もっと大きな自分」に小さな自分を捧げることができるかどうか。それが、愛に身を投じるための資格です。そうでなければ、愛という名のパワーゲーム、愛という名の駆け引きに翻弄されるだけでしょう。


どんな愛にも、いつか必ず自我を超えていかなければならない地点がやってきます。小さな自分、小さな境界線を越えていかなければならない時が。

この地点がやってきたとき、あなたは逃げ出すのです。

誰も自分の小さな、しかし、いとおしいエゴを犠牲にしたくはないのです。
もし万が一逃げ出す機会を逃せば、二人は子供をもうけ、より小さなエゴに自分たちの少しばかり大きなエゴを捧げます。子供のために犠牲になることは、人間的には成長するでしょうが、霊的に成長することは難しいでしょう。「自分より低い自我」に「自分の自我」を捧げたからです。
子供はあなたから生まれたので、どんなに成長してもあなたより高位になることはありません。親は時間お金エネルギー、あらゆることを犠牲にして子供を育てます。けれども、自分より低い子供に捧げることは、難しいことではありません。あなたはいつも子供より高位にいられるからです。
けれども、自分より高位にあるものに身を捧げるには、あなたのエゴは死ななければなりません。



どんな恋愛にも、遅かれ早かれこの地点は必ずやってきます。その時には、もっと高みにいくか、別れるかしかありません。


ところで、その「大いなる、高次の存在」というものは、どこに見出すことができるのでしょう・・・・・?

自分のちっぽけなエゴを落としたときに、それはあなたに現れます。
そのときのあなたの味わう歓びの様は相手を刺激します。エゴを落とすことがそんなにも楽しいのなら、自分も落としてみようかなという勇気を与えるのです。

瞑想の中で見つける以外に、自分の中に高次の存在を見出すことはできません。相手の中にふとした瞬間、その一瞥を見出すことができるだけです。そして、結局は、相手の中にある高次の存在も、自分の中にある高次の存在も同じだということに気づくのです。

そう、それはひとつなのです。

誰もがみな、自分の苦しみは自分の小さなエゴのせいだとわかっています。誰もがみな、そんなものは処分して、肩の力を抜いて幸せになりたいと望んでいます。けれども、もうエゴに疲れ切っているにもかかわらず、どこに捨てればいいのかわかりません。

そこで、心のうちで密かに戦争でも起こってくれないかと待っているのです。国と国とが戦えば、大きなミッションのために小さなエゴを落とせる絶好の機会です。戦争は無理でも、エゴを落とす口実になる何か大きなできごとを期待しています。
でもそれらは、外側から与えられたもの。苦痛からは開放されるかもしれませんが、大きな喜びは起こりません。
「もっと大きな自分自身」のためのミッションを自分で創造することができれば、それに勝る歓喜はないはずです。

ここでいう「もっと大きな自分」とは、具体的にどういうことなのでしょう?

たとえば、こういう例を理解すればわかりやすいでしょう。
朝の五時。ぐっすり眠っているのは、小さな私です。もっと大きな私は、「さあ起きて、散歩に行きましょう」と言います。小さな私の喜びを犠牲にして、起きなければなりません。しぶしぶ起きて散歩に出かけた私は、朝のフレッシュな空気に満たされ、とてつもなくいい気持です。
ベッドの中の気持ちいい眠りと、朝の散歩の気持ちよさは、比べるまでもありません。もっと大きな楽しさがあると知りながら、小さな私はベッドを抜け出したくありません。

小さな私は負けたくないのです。より高みに在るものの方がより大きな喜びであるのに、つまらない小さな喜びにしがみつこうとするのです。知ってはいるのにできません。「知っていること」は役に立たないのです。小さな私は、低次元の快楽にすぐにおぼれてしまうのです。そんな快楽は長くは続かないということをすっかり忘れて、きっとずっと続くと思い込んでいるのです。

この小さなピグミーがあなたのボスなのです。五歳の子どもが一国の首相になって、命令を下しているようなものです。どうなると思いますか?国民は全員、朝食にアイスクリームを食べなければ罰せられます。こんなバカげたことが、あなたの内側で起こっているのです。

ジャンクフードは体に悪いとわかっていても、止められないでしょう?

お腹を空かせた五歳のボスは、欲求不満でいっぱい。あれも食べたい、これも欲しい。今やパワーを手に入れた五歳児は、叶えられなかった望みを満たそうとしているのです。

どうして、こんな五歳児があなたのボスになることを許してしまったのでしょう・・・・・?

あなたが規律のある行いをしてこなかったからです。それは小さなボスにとっては拷問でしかないので、もちろん全力で抵抗するに決まっています。

それにしても、今までずっとそのような暴君の絶対君主制を許してきたのはなぜなのでしょう?

あなたは、だれがあなたという国を治めているか、ずっと無関心だったのではありませんか?領土は外壁に囲まれ、出入り口には鉄の門が設けられ、外界との接触はほとんど許されない。あなたの国は、いつの間にか鎖国状態になっていたことにも気づかず、その中でうつらうつら眠りこけていたのです。世界から隔絶し、どんどん小さく縮こまり、内向し、凝り固まり、ボスの命令だけを聞いて・・・

たとえばダンスの真っただ中で、たとえば大空の広がる自然の中で、もしくは何かのきっかけで、自分が果てしなく広がっていると感じるとき、あなたは愛と歓喜にあふれるという経験をします。何かのきっかけで小さな自分を忘れるとき、大いなる自分は突然やってきます。
ところがすぐにいつもの習慣で小さな自分にスルスルと戻ってしまいます。大いなる自分の存在を忘れないようにするには、たえ間のない訓練が必要なのです。

「自分を犠牲にする」「自己を滅却する」などとはじめから言われても、あまりにもハードルが高いので、「自分を忘れる」とやさしい言い方をするのです。本当は「自分を殺してしまえ」というのが正しい言い方かもしれません。
小さな自分を殺してしまえ。
しかしそんな酷いことをいきなり言われたら、きっとみんな逃げ出してしまうでしょう?

「自分を忘れる」ことは、残念ながらまちがった使いかたをされています。ドラッグ、アルコール、ミュージック、セックス、これらはみんな自分を忘れるためのツールです。確かに忘れさせてはくれますが、「もっと大きな自分」を与えてはくれません。誰もが苦しみをもたらす自分の小さなエゴをなんとかして捨て去りたいと心の中では望んでいるので、そのためのきっかけを探して泥酔し、トランス状態になり、溺れているのです。



意識の覚醒の中で、「大いなる自分」の存在を知れば、「小さな自分」は抗うことなく、まるで一滴の水が大海に溶けていくように、その中に消失していきます。そこには、ただ歓びがあるだけです。


気をつけなければならないのは、小さな自分が溶けていけるのは、誰か他の人の大いなる存在ではなくて、自分の中に隠れている大いなる存在にだけです。大いなる存在は、ひとつです。ただその入り口は、あなたの中にあるのです。
もし、誰かが「さあ、わたしの大いなる存在にあなたの自己を捨て去りなさい」というのなら、そこにはきっとある種の搾取があるにちがいありません。
あなたの内側でしか、「大いなる存在」のしっぽをつかまえることはできないのです。その本体がすべてとつながったひとつの存在であることを知り、小さな自分がその中に溶解したならば、その時あなたは生まれ変わったように別人になるでしょう。

瞑想においては、外側に何か探しに行くようなことは一切ありません。ただ目を閉じ、ひたすら内側を見よというのは、ずんずん見ているうちに、大いなる存在のしっぽにぶち当たるかもしれないからです。


ところで、大きな自然災害や大惨事に見舞われたりしたとき、人々の内面に起こる変化に気づいたことはあるでしょうか?

自分のことなんかそっちのけで、突然みんなに手を貸したり、何かしてあげたくなります。そんなときは、「もっと大きな自分」が現われているのです。
しかし、そのような非常事態を待たないと大いなる自分に出会えないとしたら、それは本物ではありません。災難が終われば、またもとの小さな自分にあっさりと戻ってしまいます。

実際は、被災者や被害者の「かわいそうな弱々しい自己」と比較して、被害を免れた自分の小さな自己のほうが、大きく偉く幸運に感じるので、手助けしたい、与えたい、世話をしたいという欲求が生まれてくるのです。それは、比較に基づいたニセの大いなる自分なので、そこで味わうある種の「高揚」や「喜び」は結局は自己満足で終わってしまいます。

ある種の人々は、好んで貧しい人々のいるところ、助けを求めている人々のいるところにばかり行きたがります。人々は大災害や、悲劇が起こるのを待っています。どこかで自分が大きく感じられるところを探しているのです。それは、歪んだ慈善者の精神です。このようなことは役に立たないし、障害にさえなります。


「愛」というのは、ある意味で鍛錬なのです。始めるのはとてもカンタンに見えます。が、一度ワナにかかれば、ありとあらゆる苦悩をもたらし、最後には自分を捨てるように要求してきます。
それが最終的な禊(みそぎ)・・・・・・・・・そして・・・・・・・・

2016年10月4日火曜日

愛の神秘



人が恋に落ちるとき。
その姿をふと目にした瞬間、あなたは恋に落ちます。
恋に落ちたら、その声を聴きたくなります。
その声を聴いたら、その人の匂いを確かめたくなります。
そしてその次に、その人を味わいたくなります。
そして、その人に触れたくなります。
五感が満足したら、心をひとつにしたくなります。
そして次に、感情を共有したくなります。
どんな時にも、どんなレベルにおいても、衝突が起こることを望みません。
心と感情をひとつにすることはなま易しいことではないので、あなたは気を付けたり、気を使ったり、様々な努力をします。ところが、体も心も感情も全部差し出したのに、どうしてもまだ距離感が埋まらないと感じるのはなぜなのでしょう?



それが愛の痛みです。

もうこれ以上差し出すものは何もありません。
もしあなたが誰かを愛したら、必ず限界点がやってきます。
私は私のすべてを捧げているのに、あなたもあなたのすべてを与えてくれているはずなのに、それでもまだ互いに何か隠し持っている・・・・・・・・





それは、あなた自身。あなたの自我。あなたのエゴです。

それすらも差し出すようにと愛は要求しはじめます。しかし、この要求はあまりにも行きすぎです。あなた自身を差し出してしまったら、誰が恋のゲームを楽しむことができるというのでしょう?

こうしてジレンマが始まります。愛が、ついには死のように感じられるようになると、あなたは逃げ出し、新しい恋を見つけに行きます。そして、新しい恋人と一からやり直すのです。体を捧げ、心を、感情を、お金を、時間を、エネルギーを捧げ、ある地点にくると、再びあの要求がやってきます。あなた自身を捧げるように、と。
あなたが「これが自分なのだ」と今まで認識してきた自分自身。あなたはこの小さな自我を失いたくありません。

体を許したのだから、あなたを頂戴。心を明け渡したのだから、あなたを頂戴。あなたのために時間を使い、お金を使い、エネルギーを使ったのだから、あなたを頂戴。私をあなたに捧げてきたのだから、あなたを頂戴。
この要求が頂点に達したとき、そしてあなたが相手を得られないとわかったとき、愛は失落します。
もし、あなたが「高尚な愛」を知らなければ、コストとリスクの割にはリターンが少ないと、投資家のように損得勘定に引きずり込まれるだけです。




ところで、結婚すると、女性の姓が変わるのはなぜだかご存知ですか?

結婚によって、夫が十分なお金、暮らし、安全を妻に保証することで、妻は自分のアイデンティティーをなくし、親から受け継いだ姓を失います。それが、結婚して、夫側の姓になることの意味です。妻は、夫の家の家族の一員になるという、結婚の意味を象徴しています。
妻が自分自身を失い、完全に夫のものになった途端、おもしろい現象が起こります。夫の全財産は、全てを失ったように見えた妻のものになるのです。

ところが、結婚はただの儀式になってしまい、本当の意味を意識されることはありません。妻は、結婚後も自分自身のアイデンティティーを守ろうとします。夫に同化することはありません。
最近では、結婚後も姓を変えたがらない女性が増加しています。インドでも、結婚後の姓と結婚前の姓のふたつを名乗ることがブームになっています。


愛が無意識に基づいていれば、いつか必ず終わるときがきます。女性が体を許すとき、たいへんなエゴが彼女を支配しているのです。他の男たちがどんなに欲しがっても、決して肌を見せることはなかった。あなたにだけよ。
そして、彼女は、心を差し出し、感情を差し出し、ハートを男性に差し出しますが、愛は無情にもあなた自身を差し出すように迫ります。肉体でもお金でも、時間でもエネルギーでもなく、あなた自身を。

それは、死を意味します。それが愛の苦さです。
恋愛というゲームの前半は甘やかで、後半は情け容赦のない死です。それはあまりにも辛くて苦いので、頭は理解できません。愛の甘い蜜の部分だけを求めて、ひらひらと花から花へ飛び回る人がほとんどです。


肉体、心、自我。形あるものを超えて、愛はやがて神秘的な側面を見せ始めます。愛には物質的な側面とスピリチュアルな側面があるのです。愛とは、肉体と魂、ふたつの世界を結びつけるもっとも神秘的な現象です。


それにしても、愛が、自我を差し出すように要求するのはどうしてなのでしょう・・・・・・・?


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