2016年6月19日日曜日

熊本地震

それは私にとって、初めての経験でした。自然災害の起こっている真っただ中に出向くなどということは今までありませんでしたが、過去三年にわったって毎年熊本を訪れていたので、地震のニュースを知ってもそこにいる友人たちに会いに行くことは止められませんでした。

もちろんそこにたどり着くまで、何が私を待っているのか知る由もありません。友人が用意してくれた滞在先は三階建てのビルの最上階の一室だったのですが、驚いたことに夜になるとビル全体がギシギシと揺れるのです。地震は今もずっと続いているとのことでした。だいたい揺れは丑三つ時をねらってやってくるので、毎晩眠りは妨げられます。眠りにつく前には、いつも死について考えてしまいます。朝、目覚めて「まだ生きている」と感じることがたいへんなよろこびでした。

その経験はわたしの中の様々な心理状態を明らかにしてくれました。生をもっと間近に見ることで、死はすぐ隣にあると知りました。生の一歩先にあるのは、間違いなく死です。はじめの一歩が生で、次の一歩は死です。わたしたちはみな死に向かっているのです。食べたり、眠ったり、踊ったり、泣いたり、飛び跳ねたり、不平を言ったり、何をしていても、わたしたちの乗った列車は次の駅へ向かっています。死へ向かっているのです。どうやってもこの列車を止めることはできないし、飛び降りることもできません。この事実があまりにも明らかになったとき、肩の力が抜けました。

ベッドの近くには落下してきそうな物を置かないように、走って逃げるとき、割れたガラスが散乱しているから、靴を近くに用意しておくように、みんなは忠告してくれます。友人たちの意見はありがたく聞きましたが、死から逃れるためにどこへ逃げればいいというのでしょう。

死はいつも内側からやってきます。外側からではありません。どういう風に死がやってきても逃げずに向き合おう。逃げながら死に背中から飛びかかられるよりも、ゆったりと正面で受け止めて死にたい。死を歓迎する気分をもつようになると深いくつろぎがやってきました。これが今回のグループでの主な学びでした。起きていることはそれが死であろうとも受け入れること。熊本の友人たちは、自分たちがこれぐらいの困難を受けいれられるほど強いので、自然界はこのような災害を見舞ったのだと勇敢にも言います。この一言には光とパワーがあります。受けるに値するからそれだけの挑戦を受けるのだと。

数日滞在しているうちに、地震が起こる少し前になると、背骨の辺りがよじれるような感覚を味わうようになりました。地震が来る10分から20分前に息苦しくなるのです。地震の波動とわたしたちもまたつながっているのです。この世に分かたれているものは何もありません。

地震の揺れは特殊で、一定方向の揺れではないので、波の上に浮かんでいるように感じます。そして絶えず微かな振動が続いています。わたしは地中で何かが震えているのを感じました。

外に出て驚いたのは、木々が恐れを抱いていることでした。木も恐怖を感じるなどとは以前は気がつきませんでした。根を地中深くに張っている大木は、特に振動をいち早く感じているようでした。わたしと木は死の恐怖を共感し合いました。死は確実に存在していて、確実にやってくるということを、以前よりも、もっともっと受け入れることができた新しい体験でした。

わたしのマスターはこれが人生最後の時だという瞬間にしか瞑想は起こらないと何度も繰り返していました。緊急事態や非常事態がやってきたとき、わたしたちはやっと内側に入ることができるのです。そうでなければ、外の世界に埋没してしまいます。

ここでの滞在はわたしにとって、瞑想を実践するまたとない機会になりました。熊本という土地は、元々、火のエレメントが活性化している特別な土地です。地震によって土のエレメントが活性化し、五つのすべてのエレメントが影響を受けているので、瞑想はとても深くなり、わたしを覚醒させてくれました。

こんな話があります。禅師が弟子に講話をしているとき、突然地震が起きました。師をひとり残したまま弟子は全員逃げ出しました。みんな師のことなどすっかり忘れていたのです。地震がおさまり、戻ってきた弟子たちは師を置き去りにして逃げ出したことをたいへん恥じました。誰かが、たずねます。「みんな逃げたのにあなたは座ったままでした。怖くはなかったのですか」師は答えます。「わたしも恐怖を感じた。私も逃げた。だが内側に逃げたのだ。みなは外側に逃げたのだ」

内側に逃げ出すことが瞑想です。

今回の熊本のグループでは、笑ったり泣いたり踊ったり、今このとき感じていることをみんなでシェアすることができて、それはそれは深い瞑想の時間をもてたことに、心から感謝しています。


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