2016年10月17日月曜日

愛の神秘3~「恋は3年で冷める」を超える唯一の方法




恋が冷めるのはなぜ?


「次のデートはどこ行く?」
肉体や、感情や、性ホルモンを楽しんでいるあいだは、愛は何も要求してきません。低い次元の自己は、ハネムーンを楽しんでいられます。
しかし、次のステップが始まったとき、楽しんでいたその自分を殺すようにという要求を突き付けられます。
その激痛を耐え抜きその苦しみを通りこして、悶絶するエゴを洗い清め流せれば、そのつぎに湧き上がってくるのは、おだやかな至福。すべてが歓喜と静寂に満ちたスペースです。ただし、当然ながらこの世で無料で手にはいるものは何ひとつありません。

そんなめんどうなことより、愛のファーストステージだけを楽しみたいという人々が大半でしょう。
新しくできたレストランに連れだって行き、今度はイタリア料理、今度はメキシコ料理。スキンシップやちょっとしたドラマを楽しんだあとには、半年ごとに相手を変え、あっちの国こっちの国と場所を変え、あくまでも最初の段階にだけ留まろうとします。このエンターテインメントの部分を「恋愛」と呼んでいるのです。

ところが、しばらくするとセカンドステージが待ち構えています。逃げることはできません。塩辛い部分が現われはじめると、場所を変え、相手を変え、再び甘くてスリリングなファーストステージに戻るべく、新しい相手とABCからやり直します。周りの景色が変わり、歩く道も変わり、すべては新鮮です。

そして、塩辛い部分がやってくると相手を変える。その繰り返しです。
世界中どこへ行ってもそんなあなたが出会うのは、あなたと同類の相手です。彼らもあなたと同じようにウロウロしているので、すぐにあなたたちはよい友達になれるでしょう。旅の友だとすぐに分かりあえます。まさに探していたのは、君のようなタイプ。私たちが求めている「恋愛」とは、まさにこのようなタイプ。

けれども、この「恋愛」はどこかつまらないし、なんだか疲れるし、熟練したあなたはあっという間に、「その地点」にたどり着いてしまいます。どの恋愛も同じパターンだからです。達人には三日もあれば十分。三日以上同じ相手と付き合わないようにとOSHOが言うのもうなづけます。

一日目。自分の一番いいところをアピールして誘惑します。
二日目。思う存分デートを楽しみます。
三日目。笑顔でサヨナラします。
それ以上は危険です。お互いの小さな自分同士がからみ合って、面倒を起こすことになるでしょう。


高次元に焦点を合わせること


誰かに恋するとき、あなたは無意識に、何かしら輝く崇高な部分をその人の中に見ているのです。そして親しさを増していくうちに相手はどんどん輝きを失い、縮んでつまらなくなるので、ついには相手の前で平気でゲップやオナラをするようになるのです。
以前のような崇高さが消えてしまったので、あなたは騙されたように感じます。
あの輝きは偽物だったのか?
けれども、そう思うのはまちがいです。相手が輝いて見えたから恋に落ちたのだと誤解しているのです。相手に「偉大な何か」を見たのはあなたの愛のせいです。誰もあなたを騙したわけではないのです。

瞑想を知らない愛は、ただ危険なだけです。
瞑想は、まず自分の中に崇高さを見出させてくれます。自分の中にもっと大きな輝く自分を見ることができれば、誰の中にも同じものを見ることができます。するとあなたは誰のことも愛することができるようになります。相手の中の低俗な部分を愛する必要などないのです。神聖な部分を愛するようになるのです。

相手の中の低次な部分とどう付き合えばいいのかわからないので、自分をオープンにできないということもあります。そんな時は、自分の中にある「もっと気高い自分」の存在を見つけると、誰の中にもその同じ「もっと気高い存在」を見つけられるようになるので、あなたはリラックスできるようになります。高みにある方が強いのです。
するとあなたは相手の低次元な攻撃の影響を受けることがなくなるので、傷つく心配はいらなくなります。


瞑想は愛をスタートさせる唯一の道です。まず自分の内面に、高次の存在を見つけること。誰かのお尻を嗅いで臭いと文句をいうのは、相手が悪いのではありません。そんなところにわざわざ鼻をこすりつけるあなたが悪いのです。

高貴さに焦点を合わせれば、あなたの目に見えるのは、至福や神々しさや仏性だけです。それらは誰のなかにも見つかるし、あなたはそれを愛するだけです。あなたが誰かの神聖さを愛しているとき、まるで自分自身のことを愛おしんでいるように感じるのは、それらが別々ではなく、ひとつだからです。
あなたはいくら愛しても疲れることはありません。これだけ愛したんだから、私のことも同じだけ愛してくれないと不公平だと、文句を言うこともありません。愛の中にあるとき、あまりにも自分のことを愛おしく感じるので、誰かほかの相手を愛していたのかどうかさえわからなくなるのです。

もし、あなたがこのような「愛の人」の愛の波動に触れるという経験をすれば、自分の中の「低次の自分」が愛されているのだと勘違いすることがあります。愛が注がれるとき、今まで私のことをこんなに愛してくれた人はいなかった、きっとこの人は本当に私のこと(個人としての小さい自分)を愛しているんだわと、エゴは思い込みます。
しかし、そのうちあなたは気づきます。彼から降りそそがれるその愛は私個人とは関係なく、私の中にある、なにか高尚な存在を愛していて、私がその高みへ近づくように手を貸して促しているんだ、と。

「愛に気づいた人」は人々がもっと大きな自分に気づくために手助けする、そういう役割を担っているのです。そうなれば、他人に傷つけられるかもしれないという恐れは消え、いつでもどこでもたくさんの人々と係ることにも恐れを抱かなくなります。
ただひとつの条件は、自分の内側に見つけた、大いなる存在を誰の中にも見つけられることです。ふたつとして大いなる存在があるわけではありません。それらはつながったひとつの存在です。誰のことも愛さずにはいられない。見知らぬ人はいなくなります。誰もかれもが自分自身。それが、「瞑想」です。

「高みを知る人」のそばにいると、あなたは突然エネルギーに満たされます。その人のためなら何だってしたくなります。どうしてこんなに献身的に奉仕してしまうのか、自分でもわからなくなりますが、どうしても止められません。魔術にでもかかってしまったのか操られているのか、疑いが頭をもたげてくるかもしれません。
しかし、やがてそれは自分自身の中の高尚なるもののために行っていたのだと知るようになるでしょう。

どこかの黒い建物の中のカウンターで支払った膨大な金額は、すべてあなた自身の高尚なる存在に投資していたのです。そのようなチャンスを与えられたので、あなたは自分に投資することができたのです。高いお金を取られた~と文句を言うことはなくなります。それは師(マスター)が仕掛けた甘い駆け引き。それが愛の神秘です。


大いなる自分を見つけるために


愛のもうひとつの側面を垣間見ることができるように手助けすることが、「リアルウーマン」の目的です。あなたの見たくない、触れたくない側面。あなたがいつも逃げ回っている、小さい自分を差し出すように、犠牲にするように要求してくる愛の側面。その領域に入っていけるようにデザインされています。

あなたがどうやって愛から逃げ、どこで滞り、いつも何を繰り返しているかを発見すること。愛のエネルギーはどのように流れ、どこでブロックされているのかを成長に伴って一歩一歩たどりながら見ていくこと。
誰がどうやって流れを澱ませたのか。あなたの中の「小さな自分」がどこで傷を負ったのか。それらをエクササイズを通して癒していきます。

傷ついた小さな自分は、大いなる自分に溶け込むことができません。まず、小さな自分を健康にすることが必要です。ただし、そこで満足してしまうのではなく、次のステップに進まなければなりません。もし、そこでとどまれば、せっかく健康になった小さな自分もそのうち不健康になってしまいます。癒されることが目的なのではなく、幸せになることが最終目的です。
健康ならそれはそれで結構ですが、「至福の歓び」が身体を駆けめぐることはありません。そのありあまる健康を持て余すことになってしまいます。
絶対に忘れてはならないのは、健康な心身だけが次のステップへジャンプすることができるということです。折れた翼では大空に飛び立つことはできません。


2016年10月11日火曜日

愛の神秘2



インドにはこんなジョークがあります。

結婚を許されない恋人同士が、橋の上から飛び降り心中することになりました。(インドではよくある話です)橋の上に立つと、真下に見える川は、はるかに深そうです。彼がレディーファーストとばかりに、彼女にどうぞお先にと優しく促します。彼女はここぞと男を立てて、いえいえ、殿方からお先にどうぞと一歩下がります。

誰もが自分をいちばん愛しているのです。誰もが相手に犠牲になってもらいたいのです。誰も自分を犠牲にしてまで相手に尽くそうなどとは思いません。究極的には、あなたはあなた自身を誰よりも愛しているということです。

ところが、いつかあなたはその何よりも大切な「自分自身」は全ての存在とつながっていることに気づかねばなりません。

「自分自身」は複数ではないのです。

「みんな結局自分がかわいいのさ」という大きな誤解のもと、自分だけが大切で相手にその犠牲になるように要求しているので、二人の間には争い以外に何も生まれません。暗闇のなかでもがくだけです。

それでも、わかってはいても、相手の小さな自我のために大切な自分を犠牲にするなんて、あまりにも癪にさわります。絶対にできるはずがありません。
エゴのかたまりがもうひとつのエゴのかたまりに、その身を捧げよと催促しても、反発が起こるのは当然です。

相手の中に「自己を超えた無我」、「宇宙的存在」を見出したとき、あなたはひとりでに自分の小さな自我を差し出します。
おもしろいことに、大いなる存在を見つけた無我の人のそばに行くと、その人は何の要求もしていないにもかかわらず、自分を差し出したくてたまらない衝動にかられるのです。



「愛」という現象に関わるには、それなりの準備が必要です。

まず、自分の中にある「エゴを超えた無我」、「もっと大きな自分」に小さな自分を捧げることができるかどうか。それが、愛に身を投じるための資格です。そうでなければ、愛という名のパワーゲーム、愛という名の駆け引きに翻弄されるだけでしょう。


どんな愛にも、いつか必ず自我を超えていかなければならない地点がやってきます。小さな自分、小さな境界線を越えていかなければならない時が。

この地点がやってきたとき、あなたは逃げ出すのです。

誰も自分の小さな、しかし、いとおしいエゴを犠牲にしたくはないのです。
もし万が一逃げ出す機会を逃せば、二人は子供をもうけ、より小さなエゴに自分たちの少しばかり大きなエゴを捧げます。子供のために犠牲になることは、人間的には成長するでしょうが、霊的に成長することは難しいでしょう。「自分より低い自我」に「自分の自我」を捧げたからです。
子供はあなたから生まれたので、どんなに成長してもあなたより高位になることはありません。親は時間お金エネルギー、あらゆることを犠牲にして子供を育てます。けれども、自分より低い子供に捧げることは、難しいことではありません。あなたはいつも子供より高位にいられるからです。
けれども、自分より高位にあるものに身を捧げるには、あなたのエゴは死ななければなりません。



どんな恋愛にも、遅かれ早かれこの地点は必ずやってきます。その時には、もっと高みにいくか、別れるかしかありません。


ところで、その「大いなる、高次の存在」というものは、どこに見出すことができるのでしょう・・・・・?

自分のちっぽけなエゴを落としたときに、それはあなたに現れます。
そのときのあなたの味わう歓びの様は相手を刺激します。エゴを落とすことがそんなにも楽しいのなら、自分も落としてみようかなという勇気を与えるのです。

瞑想の中で見つける以外に、自分の中に高次の存在を見出すことはできません。相手の中にふとした瞬間、その一瞥を見出すことができるだけです。そして、結局は、相手の中にある高次の存在も、自分の中にある高次の存在も同じだということに気づくのです。

そう、それはひとつなのです。

誰もがみな、自分の苦しみは自分の小さなエゴのせいだとわかっています。誰もがみな、そんなものは処分して、肩の力を抜いて幸せになりたいと望んでいます。けれども、もうエゴに疲れ切っているにもかかわらず、どこに捨てればいいのかわかりません。

そこで、心のうちで密かに戦争でも起こってくれないかと待っているのです。国と国とが戦えば、大きなミッションのために小さなエゴを落とせる絶好の機会です。戦争は無理でも、エゴを落とす口実になる何か大きなできごとを期待しています。
でもそれらは、外側から与えられたもの。苦痛からは開放されるかもしれませんが、大きな喜びは起こりません。
「もっと大きな自分自身」のためのミッションを自分で創造することができれば、それに勝る歓喜はないはずです。

ここでいう「もっと大きな自分」とは、具体的にどういうことなのでしょう?

たとえば、こういう例を理解すればわかりやすいでしょう。
朝の五時。ぐっすり眠っているのは、小さな私です。もっと大きな私は、「さあ起きて、散歩に行きましょう」と言います。小さな私の喜びを犠牲にして、起きなければなりません。しぶしぶ起きて散歩に出かけた私は、朝のフレッシュな空気に満たされ、とてつもなくいい気持です。
ベッドの中の気持ちいい眠りと、朝の散歩の気持ちよさは、比べるまでもありません。もっと大きな楽しさがあると知りながら、小さな私はベッドを抜け出したくありません。

小さな私は負けたくないのです。より高みに在るものの方がより大きな喜びであるのに、つまらない小さな喜びにしがみつこうとするのです。知ってはいるのにできません。「知っていること」は役に立たないのです。小さな私は、低次元の快楽にすぐにおぼれてしまうのです。そんな快楽は長くは続かないということをすっかり忘れて、きっとずっと続くと思い込んでいるのです。

この小さなピグミーがあなたのボスなのです。五歳の子どもが一国の首相になって、命令を下しているようなものです。どうなると思いますか?国民は全員、朝食にアイスクリームを食べなければ罰せられます。こんなバカげたことが、あなたの内側で起こっているのです。

ジャンクフードは体に悪いとわかっていても、止められないでしょう?

お腹を空かせた五歳のボスは、欲求不満でいっぱい。あれも食べたい、これも欲しい。今やパワーを手に入れた五歳児は、叶えられなかった望みを満たそうとしているのです。

どうして、こんな五歳児があなたのボスになることを許してしまったのでしょう・・・・・?

あなたが規律のある行いをしてこなかったからです。それは小さなボスにとっては拷問でしかないので、もちろん全力で抵抗するに決まっています。

それにしても、今までずっとそのような暴君の絶対君主制を許してきたのはなぜなのでしょう?

あなたは、だれがあなたという国を治めているか、ずっと無関心だったのではありませんか?領土は外壁に囲まれ、出入り口には鉄の門が設けられ、外界との接触はほとんど許されない。あなたの国は、いつの間にか鎖国状態になっていたことにも気づかず、その中でうつらうつら眠りこけていたのです。世界から隔絶し、どんどん小さく縮こまり、内向し、凝り固まり、ボスの命令だけを聞いて・・・

たとえばダンスの真っただ中で、たとえば大空の広がる自然の中で、もしくは何かのきっかけで、自分が果てしなく広がっていると感じるとき、あなたは愛と歓喜にあふれるという経験をします。何かのきっかけで小さな自分を忘れるとき、大いなる自分は突然やってきます。
ところがすぐにいつもの習慣で小さな自分にスルスルと戻ってしまいます。大いなる自分の存在を忘れないようにするには、たえ間のない訓練が必要なのです。

「自分を犠牲にする」「自己を滅却する」などとはじめから言われても、あまりにもハードルが高いので、「自分を忘れる」とやさしい言い方をするのです。本当は「自分を殺してしまえ」というのが正しい言い方かもしれません。
小さな自分を殺してしまえ。
しかしそんな酷いことをいきなり言われたら、きっとみんな逃げ出してしまうでしょう?

「自分を忘れる」ことは、残念ながらまちがった使いかたをされています。ドラッグ、アルコール、ミュージック、セックス、これらはみんな自分を忘れるためのツールです。確かに忘れさせてはくれますが、「もっと大きな自分」を与えてはくれません。誰もが苦しみをもたらす自分の小さなエゴをなんとかして捨て去りたいと心の中では望んでいるので、そのためのきっかけを探して泥酔し、トランス状態になり、溺れているのです。



意識の覚醒の中で、「大いなる自分」の存在を知れば、「小さな自分」は抗うことなく、まるで一滴の水が大海に溶けていくように、その中に消失していきます。そこには、ただ歓びがあるだけです。


気をつけなければならないのは、小さな自分が溶けていけるのは、誰か他の人の大いなる存在ではなくて、自分の中に隠れている大いなる存在にだけです。大いなる存在は、ひとつです。ただその入り口は、あなたの中にあるのです。
もし、誰かが「さあ、わたしの大いなる存在にあなたの自己を捨て去りなさい」というのなら、そこにはきっとある種の搾取があるにちがいありません。
あなたの内側でしか、「大いなる存在」のしっぽをつかまえることはできないのです。その本体がすべてとつながったひとつの存在であることを知り、小さな自分がその中に溶解したならば、その時あなたは生まれ変わったように別人になるでしょう。

瞑想においては、外側に何か探しに行くようなことは一切ありません。ただ目を閉じ、ひたすら内側を見よというのは、ずんずん見ているうちに、大いなる存在のしっぽにぶち当たるかもしれないからです。


ところで、大きな自然災害や大惨事に見舞われたりしたとき、人々の内面に起こる変化に気づいたことはあるでしょうか?

自分のことなんかそっちのけで、突然みんなに手を貸したり、何かしてあげたくなります。そんなときは、「もっと大きな自分」が現われているのです。
しかし、そのような非常事態を待たないと大いなる自分に出会えないとしたら、それは本物ではありません。災難が終われば、またもとの小さな自分にあっさりと戻ってしまいます。

実際は、被災者や被害者の「かわいそうな弱々しい自己」と比較して、被害を免れた自分の小さな自己のほうが、大きく偉く幸運に感じるので、手助けしたい、与えたい、世話をしたいという欲求が生まれてくるのです。それは、比較に基づいたニセの大いなる自分なので、そこで味わうある種の「高揚」や「喜び」は結局は自己満足で終わってしまいます。

ある種の人々は、好んで貧しい人々のいるところ、助けを求めている人々のいるところにばかり行きたがります。人々は大災害や、悲劇が起こるのを待っています。どこかで自分が大きく感じられるところを探しているのです。それは、歪んだ慈善者の精神です。このようなことは役に立たないし、障害にさえなります。


「愛」というのは、ある意味で鍛錬なのです。始めるのはとてもカンタンに見えます。が、一度ワナにかかれば、ありとあらゆる苦悩をもたらし、最後には自分を捨てるように要求してきます。
それが最終的な禊(みそぎ)・・・・・・・・・そして・・・・・・・・

2016年10月4日火曜日

愛の神秘



人が恋に落ちるとき。
その姿をふと目にした瞬間、あなたは恋に落ちます。
恋に落ちたら、その声を聴きたくなります。
その声を聴いたら、その人の匂いを確かめたくなります。
そしてその次に、その人を味わいたくなります。
そして、その人に触れたくなります。
五感が満足したら、心をひとつにしたくなります。
そして次に、感情を共有したくなります。
どんな時にも、どんなレベルにおいても、衝突が起こることを望みません。
心と感情をひとつにすることはなま易しいことではないので、あなたは気を付けたり、気を使ったり、様々な努力をします。ところが、体も心も感情も全部差し出したのに、どうしてもまだ距離感が埋まらないと感じるのはなぜなのでしょう?



それが愛の痛みです。

もうこれ以上差し出すものは何もありません。
もしあなたが誰かを愛したら、必ず限界点がやってきます。
私は私のすべてを捧げているのに、あなたもあなたのすべてを与えてくれているはずなのに、それでもまだ互いに何か隠し持っている・・・・・・・・





それは、あなた自身。あなたの自我。あなたのエゴです。

それすらも差し出すようにと愛は要求しはじめます。しかし、この要求はあまりにも行きすぎです。あなた自身を差し出してしまったら、誰が恋のゲームを楽しむことができるというのでしょう?

こうしてジレンマが始まります。愛が、ついには死のように感じられるようになると、あなたは逃げ出し、新しい恋を見つけに行きます。そして、新しい恋人と一からやり直すのです。体を捧げ、心を、感情を、お金を、時間を、エネルギーを捧げ、ある地点にくると、再びあの要求がやってきます。あなた自身を捧げるように、と。
あなたが「これが自分なのだ」と今まで認識してきた自分自身。あなたはこの小さな自我を失いたくありません。

体を許したのだから、あなたを頂戴。心を明け渡したのだから、あなたを頂戴。あなたのために時間を使い、お金を使い、エネルギーを使ったのだから、あなたを頂戴。私をあなたに捧げてきたのだから、あなたを頂戴。
この要求が頂点に達したとき、そしてあなたが相手を得られないとわかったとき、愛は失落します。
もし、あなたが「高尚な愛」を知らなければ、コストとリスクの割にはリターンが少ないと、投資家のように損得勘定に引きずり込まれるだけです。




ところで、結婚すると、女性の姓が変わるのはなぜだかご存知ですか?

結婚によって、夫が十分なお金、暮らし、安全を妻に保証することで、妻は自分のアイデンティティーをなくし、親から受け継いだ姓を失います。それが、結婚して、夫側の姓になることの意味です。妻は、夫の家の家族の一員になるという、結婚の意味を象徴しています。
妻が自分自身を失い、完全に夫のものになった途端、おもしろい現象が起こります。夫の全財産は、全てを失ったように見えた妻のものになるのです。

ところが、結婚はただの儀式になってしまい、本当の意味を意識されることはありません。妻は、結婚後も自分自身のアイデンティティーを守ろうとします。夫に同化することはありません。
最近では、結婚後も姓を変えたがらない女性が増加しています。インドでも、結婚後の姓と結婚前の姓のふたつを名乗ることがブームになっています。


愛が無意識に基づいていれば、いつか必ず終わるときがきます。女性が体を許すとき、たいへんなエゴが彼女を支配しているのです。他の男たちがどんなに欲しがっても、決して肌を見せることはなかった。あなたにだけよ。
そして、彼女は、心を差し出し、感情を差し出し、ハートを男性に差し出しますが、愛は無情にもあなた自身を差し出すように迫ります。肉体でもお金でも、時間でもエネルギーでもなく、あなた自身を。

それは、死を意味します。それが愛の苦さです。
恋愛というゲームの前半は甘やかで、後半は情け容赦のない死です。それはあまりにも辛くて苦いので、頭は理解できません。愛の甘い蜜の部分だけを求めて、ひらひらと花から花へ飛び回る人がほとんどです。


肉体、心、自我。形あるものを超えて、愛はやがて神秘的な側面を見せ始めます。愛には物質的な側面とスピリチュアルな側面があるのです。愛とは、肉体と魂、ふたつの世界を結びつけるもっとも神秘的な現象です。


それにしても、愛が、自我を差し出すように要求するのはどうしてなのでしょう・・・・・・・?

2016年9月17日土曜日

10月29日(土)~11月9日(水) インドリシケシ瞑想トレーニング

詳細はこちら→

10月1,2日 親子のためのワークショップ@中国・北京
10月7,8,9日 瞑想の深み
10月15日 親密さの神秘
期間中、個人セッション(要予約)

2016年9月16日金曜日

8月27,28日(土、日) 瞑想についてのQ&A @韓国・ソウル
8月31日(水) NEW ZEN 

 社会的に成功して、地位や名誉や権力がほしい

でも、自分にはそんな才能も力もありません

それなら、成功した男性の妻になれば、豊かで満ち足りた人生を送ることができるはず

・・・ああ、お金持ちの男性をゲットできないかしら・・・


ところで、なぜ私は、社会的ステイタスを求め、お金持ちになりたいのでしょう?



 成功すれば、まちがいなくお金持ちになれます。

お金持ちになることが「成功」です。

それではなぜ、そんなにお金持ちになりたいのか・・・・・?


お金によって手に入れられるものは、「自由」です。

2016年8月5日金曜日


Q. 不運に見舞われたり、事件に巻き込まれたりするのは、私に責任があるのですか?


A. 「リアルウーマン」では、ヒーリングの科学を用いています。
本文の記述の中には、ハッとしたりムッとしたりすることや、痛いところを突かれることや、
今までの生き方や考え方について考え直させられることが多々あることでしょう。
もしそうなら、この本の目的は果たされたことになります。

2016年7月22日金曜日

7月31日(日)瞑想の深みと高みVol.2


日時 7月31日(日)10:00~18:00
会場 大阪・箕面(お申し込みの方に詳細お知らせします)
参加費 5000円(午前の部2000円 午後の部3000円)
持ち物 昼食、飲み物、ショール、滝まで歩く人は歩きやすい靴

瞑想は戯れではない。
ときには、それは危険でもありうる。
あなたは微妙な、とても微妙は心のメカニズムを相手にしている。
ときには、自分がしているとは気づかずにいるささいなことが危険になりうる。
だから、けっして創作を試みたりしていはならない。
また、自己流のごたまぜ瞑想法をつくってはならない。
ふたつを選び、2~3週間やってみるがいい・・・OSHO(オレンジブックより)


2016年7月19日火曜日

7月24日(日)6:15pm~9:15pm Woman's Celebration+「REAL WOMAN」出版記念パーティー

会場  大阪市内(お申し込みの方に詳細はお知らせします)
参加費 女性3000円 男性3000円(静かに参観することが条件です。口を開くと課金されます)

お茶とお菓子でささやかながら出版記念パーティーを開きます。差し入れ大歓迎。
フェミニンにドレスアップしてきてくださいね。(男性はダンディーに)

2016年6月19日日曜日

熊本地震

それは私にとって、初めての経験でした。自然災害の起こっている真っただ中に出向くなどということは今までありませんでしたが、過去三年にわったって毎年熊本を訪れていたので、地震のニュースを知ってもそこにいる友人たちに会いに行くことは止められませんでした。

もちろんそこにたどり着くまで、何が私を待っているのか知る由もありません。友人が用意してくれた滞在先は三階建てのビルの最上階の一室だったのですが、驚いたことに夜になるとビル全体がギシギシと揺れるのです。地震は今もずっと続いているとのことでした。だいたい揺れは丑三つ時をねらってやってくるので、毎晩眠りは妨げられます。眠りにつく前には、いつも死について考えてしまいます。朝、目覚めて「まだ生きている」と感じることがたいへんなよろこびでした。

その経験はわたしの中の様々な心理状態を明らかにしてくれました。生をもっと間近に見ることで、死はすぐ隣にあると知りました。生の一歩先にあるのは、間違いなく死です。はじめの一歩が生で、次の一歩は死です。わたしたちはみな死に向かっているのです。食べたり、眠ったり、踊ったり、泣いたり、飛び跳ねたり、不平を言ったり、何をしていても、わたしたちの乗った列車は次の駅へ向かっています。死へ向かっているのです。どうやってもこの列車を止めることはできないし、飛び降りることもできません。この事実があまりにも明らかになったとき、肩の力が抜けました。

ベッドの近くには落下してきそうな物を置かないように、走って逃げるとき、割れたガラスが散乱しているから、靴を近くに用意しておくように、みんなは忠告してくれます。友人たちの意見はありがたく聞きましたが、死から逃れるためにどこへ逃げればいいというのでしょう。

死はいつも内側からやってきます。外側からではありません。どういう風に死がやってきても逃げずに向き合おう。逃げながら死に背中から飛びかかられるよりも、ゆったりと正面で受け止めて死にたい。死を歓迎する気分をもつようになると深いくつろぎがやってきました。これが今回のグループでの主な学びでした。起きていることはそれが死であろうとも受け入れること。熊本の友人たちは、自分たちがこれぐらいの困難を受けいれられるほど強いので、自然界はこのような災害を見舞ったのだと勇敢にも言います。この一言には光とパワーがあります。受けるに値するからそれだけの挑戦を受けるのだと。

数日滞在しているうちに、地震が起こる少し前になると、背骨の辺りがよじれるような感覚を味わうようになりました。地震が来る10分から20分前に息苦しくなるのです。地震の波動とわたしたちもまたつながっているのです。この世に分かたれているものは何もありません。

地震の揺れは特殊で、一定方向の揺れではないので、波の上に浮かんでいるように感じます。そして絶えず微かな振動が続いています。わたしは地中で何かが震えているのを感じました。

外に出て驚いたのは、木々が恐れを抱いていることでした。木も恐怖を感じるなどとは以前は気がつきませんでした。根を地中深くに張っている大木は、特に振動をいち早く感じているようでした。わたしと木は死の恐怖を共感し合いました。死は確実に存在していて、確実にやってくるということを、以前よりも、もっともっと受け入れることができた新しい体験でした。

わたしのマスターはこれが人生最後の時だという瞬間にしか瞑想は起こらないと何度も繰り返していました。緊急事態や非常事態がやってきたとき、わたしたちはやっと内側に入ることができるのです。そうでなければ、外の世界に埋没してしまいます。

ここでの滞在はわたしにとって、瞑想を実践するまたとない機会になりました。熊本という土地は、元々、火のエレメントが活性化している特別な土地です。地震によって土のエレメントが活性化し、五つのすべてのエレメントが影響を受けているので、瞑想はとても深くなり、わたしを覚醒させてくれました。

こんな話があります。禅師が弟子に講話をしているとき、突然地震が起きました。師をひとり残したまま弟子は全員逃げ出しました。みんな師のことなどすっかり忘れていたのです。地震がおさまり、戻ってきた弟子たちは師を置き去りにして逃げ出したことをたいへん恥じました。誰かが、たずねます。「みんな逃げたのにあなたは座ったままでした。怖くはなかったのですか」師は答えます。「わたしも恐怖を感じた。私も逃げた。だが内側に逃げたのだ。みなは外側に逃げたのだ」

内側に逃げ出すことが瞑想です。

今回の熊本のグループでは、笑ったり泣いたり踊ったり、今このとき感じていることをみんなでシェアすることができて、それはそれは深い瞑想の時間をもてたことに、心から感謝しています。

7月10日(日)瞑想の深みと高み@大阪

日時   7月10日(日)10:00~17:00
会場   大阪(申し込みいただいた方にお知らせします)
持ち物  昼食、飲み物、ショール


<プログラム>

午前の部
10:00 ダイナミックメディテーション
11:30 瞑想の科学(お話し)
12:00 ヴィッパサナーメディテーション

13:00 昼食

午後の部
14:00 ボディーマインドリラックゼーション
14:30 ナダブラーマメディテーション
16:00 クンダリーニメディテーション


今回の瞑想三昧の一日は、正しい瞑想法を学ぶ絶好の機会です。
日ごろ何気なく行っている瞑想法は、いつの間にかすっかり我流になってしまい、大切なポイントを忘れてしまっていることもあります。
いくら瞑想をしてもなんの効果もないと感じるのは、瞑想のやり方が正しくないのかもしれません。
初心に帰って、しっかりとインストラクションに従ってやってみると、意識はこんなにも深みに降りていくことができ、こんなにも高みに昇ることができるのかと驚くことでしょう。
はじめて瞑想を試みてみようと言う人にも、長年瞑想に親しんできた人にも、瞑想に対する理解と体験を味わうことができる意義深い一日になるはずです。

ダイナミックメディテーションはなるべく空腹で。朝食は軽くしておいてください。
昼食は各自でお弁当を用意してください。近くにコンビニあります。

 
問い合わせ、申し込み officeantar@gmail.com 072-723-7047/090-3618-9707

7月3日(日)男のためのタントラ@大阪


◇日時           7月3日(日)18:15~21:15
◇会場           大阪市内(お申し込みの方に詳細はお知らせします)
◇参加費       5000円(男性)
                     3000円(女性:ただし、静かに参観することが条件です。口を開くと、課金されます)
◇持ち物       ショール、ヨガマットなど下に敷くもの

【プログラム】

Part==「講義」タントラ、タオの知恵をもとに、性的興奮がおこったとき、あるいは性的興奮がおこらないとき、男性のからだの中で何が起こっているのかを理解します。

Part==「質疑応答」「シェアリング」抱えている問題や疑問に光を投げかけます。

Part==「瞑想」頭で理解したことを体が消化するように、いくつかの瞑想テクニックを実践します。

男性とはどういう生き物であるか。自分の体、マインド、セクシュアリティ、生理現象、精神性、・・・実はあまりよく分かっているとは言えません。

女性にとって男性の心理や行動は意味不明の、まるで違う種類の生き物のようです。

男性の体では、性センターとハートがつながっていないことがあります。だから、愛がなくてもセックスをすることができるし、愛が溢れかえっているのにセックスできないこともあります。肉体が若いときに起こる現象です。

中年、熟年になるとマインドはそうしたいのに、体が準備できないこともあります。それでひどく落ち込み、妄想だけがふくらんでいきます。

もし彼女と一緒になっていたら・・・過去に満たされなかった夢や欲望が、現在の生活や関係性に影響することがあります。

歪められた性エネルギーは慢性的自慰行為や性倒錯、アルコール中毒、喫煙、ドラッグ中毒などを引き起こします。

自分のセックスライフを振り返ることで、自分自身やパートナーとどう向き合っているかを見ることができます。

女性の体と深くくつろいで長い時間共に過ごすことができるように、スローセックスのためのテクニックも学んでいきます。

女性が望んでいることは何か。男性が誤解したり思い込んだりしていることとの違いも明らかにしていきます。

男性の本質、男性の原理、男性の幸福とは何か。

今まであまり顧みられてこなかった「男性性」にスポットを当てるのが今回の企画です。

男性というものをもっと知りたい女性の参観も大歓迎です。



問い合わせ・申し込み 072-723-7047 オフィス・アンタール        officeantar@gmail.com


6月2日(木)ウェルカムイベント@下北沢
6月4日(土)〜5日(日)Awakening of ShivaShakti (2日間)@逗子

5月26日(木)ウェルカムイベント@大阪
5月28日(土)〜29日(日)Awakening of ShivaShakti (2日間)@大阪

5月26日(木)ウェルカムイベント@大阪
5月28日(土)〜29日(日)Awakening of ShivaShakti (2日間)@大阪

5月
5月21日(土)~22日(日)  Meditaition & Meditaion Techniques  with Uttam Das in Japan 2016 自ら引き起こす「苦」外的な「苦」 自然災害による「苦」
http://hus-lab.com/page/workshop/16/


4月
4月16,17日、18日 ミステリー・オブ・フィーメールエナジー@北京
4月23,24日、25日 瞑想グループ@上海

3月
3月5日(土)日本出発〜3月12日(土)Root and Flowering of ShivaShakti
〜シヴァシャクティの根、そして開花〜@カジュラホ5日間リトリート

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